54 馬方勝っあん
今はもう湖底に沈んでしまった内堀部落に、レンゲ、タンポポが、春がすみの中に咲いていたころのお話しです。
この村に中藤村(武蔵村山市)から、お酒の好きな五十歳前後の体格のよい馬方さんが、配達の仕事で来ていました。
当時村の人々は、「馬方勝っあん」と呼んでいました。
勝っあんの家は、芋窪村と中藤村境の東の「とっつき」旧青梅街道の北側にあり、通称「中藤の大橋」にありました。
朝早く家から、馬車を引き出し、得意先々の店により、注文の品物を聞き、所沢の問屋まで仕入れに行き、配達して賃金をもらう毎日でした。
勝っあんはよく働く人で所沢まで往復八里(十六キロメートル)もあるのに、夕方までに注文の品を届けるので、商店の主人達に重宝がられておりました。
勝っあんは、「内堀の店で好きな酒をゆっくり飲む。これが何よりの楽しみで働くのだ」とよく言っていたそうです。
「内堀の店」と言うのは、内堀村、西隣り、荒ヶ谷戸、東隣り、杉本、林、中田、の数十軒の民家を相手に、関田力造さんという人が経営していました。雑貨、荒物、酒、タバコ、米、麦等生活に必要な品を揃えていた大きな商店でした。
いつものように勝っあんが、「一杯飲んでいくべい」というと馬の足は自然と「内堀の店」の前で止りました。
勝っあんが、中で陽気に飲んでいても、馬はおとなしく外で待っていました。お酒の好きな勝っあんは、ついつい飲みすぎてしまい、酔っぱらってしまうこともありました。そんな時、店の主人は馬に、「お前、勝っあんを家まで送っておくれ」とたのむと、馬はわかった様子で、勝っあんが落ちないようにゆっくり歩き出しました。
いい機嫌に酔った勝っあんが、たずなを手に持ち、『かわいいばあさん乗せて、東京へ行ってみてえ』と歌いながら馬車にゆられて、庚申坂を登って行く姿を見たものだ。」と内堀村の長老、内堀小十郎さんは当時を思い出しながら、なつかしそうに話してくれました。
勝っあんの通った道は、現在の奈良橋八幡神社東側の道を登ると、村山貯水池周囲道路につき当ります。その真向いの道です。進行防止の鉄線がはられていますが、その道をしばらく行くと、急坂になりその辺から水辺になります。昔はこの坂を下った所に、庚申様が祀ってあって、内堀村の人々は「庚申坂」といっておりました。
(p118~120)
庚申坂は当時のメイン道路 内堀に入る前に宅部方面、山口観音~山口城~河越方面への分岐路があり、2方向に向かう
庚申様(霊性庵)と宝筐印塔(雲性寺)が祀ってあった。 田久保さんから聞く。2010.02.02.
宝筐印塔は享保10年(1725)雲性寺法印伝翁 金乘院現住法印 竜成
庚申坂には、内堀小十郎、内堀義三(お庚申)が住む
市資料編は関田力造 正しくは関下力造